『孤独の発明』はポール・オースターの難解なファンディスク

孤独の発明は、僕が最近どハマリ中の作家、ポール・オースターの処女作という事で手にとりました。気に入った作家は作品発表順に全部読んでみたくなるからです。

「孤独の発明だと!?なんと素晴らしいタイトルだ!」

孤独について魅力的に綴った『ムーン・パレス』でポール・オースターを知った僕にとって、ドンピシャで心を打つタイトルだったのです。

…この本を読み終える前までは

「なんだ!なんなんだ、この本は!?なんて難解なタイトルで、なんて難解な内容なんだ!!」

読み終えた僕の考えはガラリと変わりました。

そうです。

孤独の発明は奇書なのです。読めば読むほど、何を読んでいるのかわからなくなる

あれだけ読みやすかった『ムーン・パレス』と同じ作家とは思えません。

しかし、心に突き刺さる文章に出会う事もあるから、読み辞めようにも辞められない。出来ることはどれだけ読むのが遅くともページをめくり続けることだけ。

そんな感じで300ページちょっとの本を、時間をかけてゴリゴリと読んでいったわけですが、実は孤独の発明を理解するにはある行為が必要だったのです…。

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小説『孤独の発明』 – ポール・オースター・あらすじ

孤独の発明
4.2

著者:ポール・オースター
翻訳:柴田元幸
出版:新潮社
ページ数:307

著者、ポール・オースターの回想録。『見えない人間の肖像』と『記憶の書』の2部構成。父の死を伝え聞いた私は15年ぶりに帰郷し、遺品の数々と対峙する。そこで一冊のアルバムを見つけ、曖昧な記憶をたどり始める。父は、そこにいるのにそこにいない人間だった。どこまでも孤独な人だった。

読書エフスキー3世 -孤独の発明篇-

前回までの読書エフスキーは

あらすじ
書生は困っていた。「孤独とは二人いて初めて感じる事が出来るのさ」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。『孤独の発明』のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…

孤独の発明 -内容紹介-

無料読書案内の書生
大変です!先生!ポール・オースターの『孤独の発明』の事を聞かれてしまいました!『孤独の発明』とは一言で表すとどのような本なのでしょうか?
読書エフスキー3世
“散文詩のような回想録”デスナ。
無料読書案内の書生
ん?散文詩ってなんでしたっけ?…率直に言って『孤独の発明』は面白い本なのでしょうか?

ある日そこにひとつの生命がある。たとえばひとりの男がいて、男は健康そのものだ。年老いてもいないし、これといって病気の経験もない。すべてはいままでのままであり、これからもこのままであるように思える。男は一日また一日と歩みを進め、一つひとつ自分の務めを果たし、目の前に控えた人生のことだけを夢みている。そしてそれから、突然、死が訪れる。ひとりの人間がふっと小さなため息をもらし、椅子に座ったまま崩れおちる。それが死だ。

引用:『孤独の発明』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(新潮社)

読書エフスキー3世
コンナ一文カラ始マル“ポール・オースター”ノ1982年の作品デス。読メバワカリマス。
無料読書案内の書生
えーっと、それでは困るのです。読もうかどうか迷っているみたいですので。ちょっとだけでも先生なりのご意見を聞かせていただきたいのですが。
読書エフスキー3世
デモナー、ヘンナイメージモッテシマウトナー。
無料読書案内の書生
えええい。意見を受け取るかどうかは人次第!先生、失礼!(ポチッと)
読書エフスキー3世
ゴゴゴゴゴ…悪霊モードニ切リ替ワリマス!
無料読書案内の書生
うぉおおお!先生の読書記録が頭に入ってくるぅぅー!!

孤独の発明 -解説-

読書エフスキー
ポール・オースターと言えば、このサイトでも3冊目の紹介になります。
書生
『ムーン・パレス』と『幻影の書』を読んで、面白かったのでポール・オースターの著書を発表年順に読んでいこうってなったんですよね!
読書エフスキー3世
ところがどっこい、今回の『孤独の発明』はどうだい!!
書生
あれ?今回も翻訳者は安定の柴田元幸さんですし、読みやすいんじゃないでしょうか?
読書エフスキー3世
それがそうでもないんですじぇ。
書生
キャラクター崩壊してませんか?そんな喋り方じゃなかったじゃないですか。
読書エフスキー3世
ぐぬぬ。ここで注意したいのは、今回の『孤独の発明』はポール・オースター名義の処女作ということになっていますが、日本語に翻訳されたのは2番目の作品である『シティ・オヴ・グラス』の方が先だって事です。
書生
それは一体なぜです?
読書エフスキー3世
詳しくはわかりませんが、ひとつにポール・オースターはそれまで詩人として活動していてほぼ無名だった事が関係しているのではないでしょうか。
書生
え?ポール・オースターって詩人だったんですか!?
読書エフスキー3世
大学卒業後は自分の詩やエッセイを書いたり、フランス語の小説の翻訳をして生計を立てていたみたいですよ。
書生
へー。
読書エフスキー3世
まぁ、小説で言うとポール・ベンジャミン名義でSqueeze Playという推理小説を書いたのが本当の第一作なんだそうですが、やっぱり人間は何よりもまず食って生きていかなければならないですからね。
書生
たしかに。駆け出しの作家はそれだけの収入では苦しいでしょうね。
読書エフスキー3世
なので小説を書く生活を本格的に始めたのは、父の死により遺産が入ってきた後の事です。
書生
父の死。
読書エフスキー3世
ええ。今回の『孤独の発明』とはまさにその父の死について書かれたものなのです。
書生
ほほう。
読書エフスキー3世
この作品は『見えない人間の肖像』と『記憶の書』の二部構成になっておりまして、『見えない人間の肖像』というのがポール・オースターの父を語った部分なのです。
書生
うーん。父を語ったものと言えば僕は昔、志賀直哉の『和解』という作品を読んだ事があります。
読書エフスキー3世
あー、ありましたね。主人公と父の葛藤の物語。
書生
あれは父との不仲の解消を描いたものでしたが、あーゆー感じではないんですか?
読書エフスキー3世
もしかしたら葛藤という感情だけを拾えば、共通点はあるのかもしれませんが。
書生
葛藤の種類が違うんですか?
読書エフスキー3世
ポール・オースターの父は、息子との喧嘩も起きないほど、人を寄せ付けない何か言いしれぬ孤独感がありました。
書生
あー。そういう父を持ったら持ったで、他とは違う葛藤を抱きそうですね。仲良くなりたいのに近づけないみたいな。
読書エフスキー3世
そこにいるのにそこにいない父。その父の孤独感は祖父の死に原因があるのではないか?と思いを辿らせていくというのが『見えない人間の肖像』の話です。
書生
祖父の死?
読書エフスキー3世
父が死んで遺品を整理していると一枚の家族写真を発見しまして、子供だった頃の父の写真なんですが、祖父だけが破かれて取り除かれている事に気がつくんです。
書生
破かれている…。なんとも奇妙な写真ですね。
読書エフスキー3世
この本の巻頭にその写真も載っているんですが、白黒写真でして、またそれが恐ろしさを漂わせているというか。ページを捲っていくと、その祖父は殺されていたことがわかるんです。
書生
え!?マジっすか!!ミステリーっぽい!
読書エフスキー3世
ポール・オースターはこの作品について、これは自伝的なものではなく、自伝を元にした創作とは言っているんですけどね。
書生
自伝であって自伝でない。
読書エフスキー3世
ちなみにね、この『見えない人間の肖像』は非常に面白いんです。
書生
話を聞く限りでは、すごい面白そうです。
読書エフスキー3世
言ってみればポール・オースターの父はただの一般人じゃないですか。その一人の一般人をここまでドラマチックに書けるのってすごいと思うんですよ。
書生
確かに。
読書エフスキー3世
本当に先が気になってペラペラとページめくりが進んで、非常に読みやすい作品だったんですけどね…。
書生
ん?読みやすかったんですか?さっき『孤独の発明』は読みにくいって言ってたじゃないっすか。
読書エフスキー3世
問題は『記憶の書』の方です。
書生
二部構成って言ってましたが、二つにつながりはあるんですか?
読書エフスキー3世
孤独という点でつながりありそうなんですけどね。『見えない人間の肖像』は父の孤独について語り、『記憶の書』はポール・オースター自身の孤独について語っている
書生
ふむ。それのどこが問題なんです?孤独をテーマに二つの視点から書いたって事じゃないんですか?
読書エフスキー3世
ぶっちゃけ、その文体の違いに困惑せずにはいられません。もう何について書かれているのか見失ってしまうほどなのです。
書生
『見えない人間の肖像』はページめくりが止まらなかったのに?そんなに文体が違うんですか?
読書エフスキー3世
文体が違うっていうのは正しい表現ではないかもしれません。ポール・オースターが詩人だったという話はしたじゃないですか。
書生
詩を書いたり翻訳で生計を立ててたんですよね?
読書エフスキー3世
その詩人だったという所が全面に押し出されたような、詩人9割小説家1割で書かれたような文章なんですよ。
書生
…ちょっと言っている意味がわからないんですが。

むかしむかしダニエルという名前の男の子がいました、とAはダニエルという名の息子に向かって語りはじめる。そしておそらく、自分自身がヒーローであるこれらの物語こそ、息子にとってもいちばん楽しい物語なのだ。部屋に座って記憶の書を書きながらAは理解する。自分もまた自分の物語を語るために、自分自身を他者として語っているのだと。自分をそこに見出すために、彼はまず自分を不在の身にしなければならない。だから彼は、私は、と言わんとしながら、Aは、と書く。なぜなら記憶の物語とは見ることの物語だからだ。たとえ見られるべきものはもはやそこになくても、それはやはり見ることの物語なのだ。

pp.254-255

読書エフスキー3世
まず主人公はAという形で書かれています。1人称視点ではなく自分を客観的に捉えるためにポール・オースターは自分をAと呼んで第三者の視点で書かれていくんです。
書生
ん?でもそういう小説って結構あるじゃないですか。ってか、この文章は別に読みにくくないですよ?
読書エフスキー3世
そのAだけに絞ってくれたら読みやすかったのかもしれないですけどね、タイトルの通り『記憶の書』なのでね、記憶を頼りに話が飛び飛びで進展していくんですよ。
書生
すいません。やっぱり何言っているかちょっとわからないです。
読書エフスキー3世
たとえば1〜10までの話があって、その数字のとおりに話が進んでいけば読んでいる方としては読みやすいと思うんです。でも3に飛んだり9に行ったり6に行ったりしたらそこには連続性が生まれないじゃないですか。
書生
ふむ。
読書エフスキー3世
あれの話をしていたら、急にこれの話を始めて、やっと話に追いついてきたらまたあれの話に戻っている。
書生
あー、たまーにそういう喋り方の人いますよね。結局何の話だったの!?何を伝えたかったの!?っていう。
読書エフスキー3世
たとえば映画っていうのはニュースなどと違って、そこにはストーリーがあって、ひとつひとつのアクションが次のアクションに対して連続性があるから見やすいと思うんですよ。
書生
たとえ話が多い。先生の話が飛び飛びですけど…。
読書エフスキー3世
何ていうんですかね、この文章をどうやって伝えたらいいのか。詩集。そう詩集を読んでいる気分なのです。
書生
詩集?小説の中に詩が入っている作品だってあるじゃないですか。
読書エフスキー3世
そういう形ではないんです。えーっと。映画館でごっちゃまぜのニュースを見せられたらどうですか?
書生
映画館でニュース。それはまた奇妙なシチュエーションっすね。
読書エフスキー3世
もし映画館でニュースを見せられたとしても、中には興味を持てるニュースだってあるわけじゃないですか。
書生
ネットでニュースを見たり、新聞を読んだりする時は自分の興味あるものだけかいつまんで見るってのが一般的ですよね。
読書エフスキー3世
だから決してつまらないわけではないんです。所々興味がわく話はあるんです。でも話の連続性がありそうな感じで書かれているのに、連続性を見いだせないような内容なので難しいのです。
書生
今日の先生はえらく混乱しているようですね。
読書エフスキー3世
文章が詩で構成されているような、前後の繋がりが吹っ飛んだような。そんなような感じの読み物でした。
書生
文章が詩で構成されているかー。文間を想像しないといけないんですかね。なんかイメージが掴めないな〜。
読書エフスキー3世
そうでしょうそうでしょう。私も自分で何を言っているかわかりませんでした。
書生
えー。なんすかそれ。
読書エフスキー3世
でもご安心を。私はとある事を発見したのです。
書生
とある発見?
読書エフスキー3世
気に入った作家は作品発表順に読んでいくってことにしたじゃないですか。
書生
ええ。それで今回がポール・オースターの第一作品目のレビューの回です。
読書エフスキー3世
でもね、あまりにもレビューが書けなかったので、先に2作品目、3作品目、4作品目を読んじゃいました。
書生
ん?
読書エフスキー3世
つまりこのレビューは『シティ・オヴ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』のレビューを書いた後に書いています。
読書エフスキー3世

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書生
あ、その三つの作品ってニューヨーク三部作って言われているやつですよね。
読書エフスキー3世
ええ。そのニューヨーク三部作を読んで、初めて『孤独の発明』に書かれている内容がわかったのです。
書生
それはつまり?
読書エフスキー3世
『孤独の発明』の『記憶の書』はファンディスクなのです!
書生
ファンディスク?…アニメとかゲームで良く聞くあれですか?
読書エフスキー3世
そう。本編の後日談などを描いたりするファンディスクってあるじゃないですか。
書生
ええ。
読書エフスキー3世
『記憶の書』は言ってみればニューヨーク三部作の前日談のようなもの。これから書きたいことはこういう事だよーと、ポール・オースターの頭の中をメモった内容なのです。
書生
ふむふむ。
読書エフスキー3世
ポール・オースターは独特の感性で「アイデンティティ」や「言葉」や「虚無感」などを捉えています。
書生
ほほう。
読書エフスキー3世
それを独特なタッチでニューヨーク三部作に書き込んでいくわけですが、その三つの作品は独立しているようで繋がっているんですね。
書生
へー。
読書エフスキー3世
三つの作品に関して共通しているのは、外よりも内側に向かっていく物語だって事です。
書生
ん?
読書エフスキー3世
ストーリーってさっきも言いましたが基本的には人と関わる連続したアクションによって話が転がっていくじゃないですか。
書生
あー。それが外側。
読書エフスキー3世
でもニューヨーク三部作はほとんど会話はありませんし、登場人物との関わりもほぼ無いんですよ。
書生
あ、なるほど。あれか。『ムーン・パレス』のホームレス時代のみたいな。
読書エフスキー3世
そうですね。あーゆー書き方に似ていますね。
書生
確かにあれも内側に向かっている書き方でしたね。
読書エフスキー3世
主人公たちは特殊な状況下の中で、色々な事を考えるわけです。言葉についてだったり、アイデンティティだったり、虚無についてだったり。
書生
その主人公たちの考えに対しての理解を深めるためのファンディスクってことでいいですか?
読書エフスキー3世
そう!まさにそうなのです。
書生
あー、なんとなくイメージ掴めました。
読書エフスキー3世
『記憶の書』は次の作品の主人公達の執筆メモなんですよ!
書生
お。それじゃあ、日本に紹介されたのがニューヨーク三部作の方が先だったってのはそういう事なんですかね。
読書エフスキー3世
ぶっちゃけ『孤独の発明』が最初に日本に輸入されてきたとしたら、ここまで受け入れられなかったかもしれませんね。
書生
それじゃあ、僕らも『ムーン・パレス』を最初に読んで良かったじゃないですか。
読書エフスキー3世
確かに。今まで通り出版年順に読んでいたとしたら一冊目の『孤独の発明』で挫折した作家になっていたかもしれません。本のめぐり合わせは大切ですね。
書生
『本は一冊目が9割』っていう本が出てきても良さそうですね。
読書エフスキー3世
人は見た目が9割』という竹内一郎の本のレビューに「本は、中身の内容が9割」という皮肉レビューはありましたけどね。
書生
あ、すでにその着目点の人いたんですね(笑)
読書エフスキー3世
見た目で言えば『孤独の発明』って本当に素晴らしいタイトルだと思います。
書生
僕はtoeというポストロックバンドが好きで、曲名で『孤独の発明』ってあるんで、そのイメージが強かったです。オシャレな曲で読書に良いと思います。
読書エフスキー3世
もし、あなたがタイトルに惹かれてこの本を手に取ったのなら、ひとまず読むのは『見えない人間の肖像』までにしましょう。
書生
お、『孤独の発明』を100倍楽しむ方法かな?
読書エフスキー3世
そしてニューヨーク三部作を読んだ後に『記憶の書』に取り掛かるのが一番ポール・オースターを好きになる読み方だと思います。
書生
孤独とは二人いて初めて感じる事が出来るのさ。えへへ。
読書エフスキー3世
急になにカッコつけちゃってるの?
書生
なんやて!?

批評を終えて

読書エフスキー
以上!白痴モードニ移行シマス!コード「ケムール・ボボーク・ポルズンコフ!」
無料読書案内の書生
「孤独とは二人いて初めて感じる事が出来るのさ」…って、あれ?
職場の同僚
何をじゃないよ!仕事中に居眠りこいて!こっちが孤独だったよ!
無料読書案内の書生
え?あれれ?読書エフスキー先生は?
上司
誰だそれ。おいおい。寝ぼけ過ぎだぞ。罰として一人でここの案内やってもらうからな!
無料読書案内の書生
えーっ!?一人で!?で、出来ないですよ〜!!
上司
寝てしまったお前の罪を呪いなさい。それじゃよろしく!おつかれ〜
無料読書案内の書生
ちょっ、ちょっと待って〜!!…あぁ。行ってしまった。どうしよう。どうかお客さんが来ませんように…。
お客さん
…あのすいません、孤独の発明について聞きたいんですが。
無料読書案内の書生
(さ、早速お客さんだーっ!!ん?でも待てよ…)いらっしゃいませー!ポール・オースターの作品でございますね。おまかせくださいませ!
 あとがき


いつもより少しだけ自信を持って『孤独の発明』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
読書エフスキー
ウィンク。パチンパチン。

名言や気に入った表現の引用

書生
「一杯の茶を飲めれば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。by フョードル・ドストエフスキー」という事で、僕の心を震えさせた『孤独の発明』の言葉たちです。善悪は別として。

私は思い知った。死んだ人間の遺していった品々と対面するほど恐ろしいことはない、と。事物はそれ自体の生命をもたない。それらが意味をもつのは、それを利用する人間の人生を指し示すものとしてでしかない。人生が終わるとき、事物は変わる。それ自体としては同じであっても。それらはそこにあり、と同時にそこにない。それらは手で触れられる幽霊だ。もはや自分が属していない世界のなかで生きつづける責め苦を負った幽霊だ。

p.18

 この時期、私にとって最悪だった瞬間を選ぶとしたら、それは、父のネクタイを腕いっぱいに抱えてどしゃぶりの雨のなかに出て、庭を越え表通りまでいって、ネクタイを救世軍のトラックのうしろに放り込んだときだと思う。ネクタイは百以上あったろう。その大半は、私も子供のころ見た覚えがあるものだった。模様、色、かたち、それらが父の顔と同じくらい鮮明に、幼かった私の意識のなかに埋め込まれていた。それをいまこうして、まるっきりゴミみたいに他人にくれてやっているのだと思うと、何だかたまらなくなってきた。私がいちばん涙に近づいたのも、まさにその瞬間、それらのネクタイをトラックに放り込んだ瞬間だった。棺が地中に降ろされるのを見るよりも、みずから父のネクタイを投げ捨てるという行為の方が、埋葬という理念を具現化しているように私には思えた。そのときはじめて、私は父が死んだことを理解した。

pp.22-23

 死は人間の肉体をその人間から奪い取る。生にあっては、人間とその肉体は同義である。死にあっては、人間があり、それとは別に肉体がある。「これはXの遺体だ」と我々は言う。あたかもその肉体、かつてはその人物そのものだった、Xを代表するのでもXに貴族するのでもなくXという人それ自身だった肉体が、いまや突然何の重要性ももたなくなってしまったかのように。ある男が部屋に入ってくる。私は男と握手する。そのとき私は、彼の手と握手しているとは感じないし、彼の肉体と握手しているとも感じない。私は彼と握手をしているのだ。死がそれを変える。これはXの遺体だ。これはXだ、ではない。それはまったく別の構文である。それまでひとつのことについて語っていたのだ、いまや我々はふたつのことについて語っている。そこで前提とされているのは、人間そのものは依然として存在しつづけているということだ。むろん存在といっても、単にひとつの理念として、さまざまな他人の心のなかに残ったイメージや記憶が織りなすひとつの集合体として存在するというにすぎないが。そして肉体はといえば、それはもはや、単なる骨と肉以上のものではない。ただの物質の塊でしかない。

pp.24-25

 私は思い知る。他人の孤独のなかに入り込むことなど不可能なのだと。わずかであれ、我々が他人を知ることができるとすれば、それは、その他人が自分を知られることを拒まないかぎりにおいてなのだ。

p.34

金があるということの意味は、物を買えるという点にとどまるものではない。それは、自分が世界から影響されずに済むということでもあるのだ。

p.90

「子供はつねに、親を過小評価するか過大評価するかそのどちらかであるものだ。よい息子にとっての父は、尊敬すべき客観的理由が父にあるかどうかとはまったく無関係に、つねに最良の父親なのだ」(プルースト)

p.103

父に言わせれば、人は仕事をすることによって世界の一部となる。そして定義上、仕事とは金をもたらすものである。もし金がもたらされなければ、それは仕事ではない。

p.104

矛盾というものの、奔放な、神秘的というほかない力。それぞれの事実が次の事実によって無化されることを私はいまや理解する。それぞれの想いが、それと同等の、反対の想いを生み出す。いかなる陳述も限定なしで行うことはできない。彼はいい人間だった。彼は悪い人間だった。彼はこれだった。彼はあれだった。どれも等しく本当なのだ。

p.105

走行計は六十七マイルを示していた。それは偶然、父の年齢でもあった――六十七歳。そのあまりの短さに、私はつくづく情けなくなった。あたかもそれが生と死のあいだの距離であるような気がした。ちょっと隣り町まで、というのとほとんど変わらない、ほんのささやかなドライブ。

p.113

何もかもが奇跡なのだよ。現代ほど驚きにあふれた時代はかつてなかったのだよ

p.145

部屋に引きこもることはその人間が盲になったことを意味するものではない。発狂したということは言葉を失ったことを意味するのではない。おそらくはむしろ、部屋こそがヘルダーリンを人生に復帰させたのだ。部屋こそが、残されていた生を彼に返してくれたのだ。

p.162

 今日起きることは昨日起きたことの一変形にすぎない。昨日は今日のこだまを響かせ、明日は来年起きることの予兆となる。

p.190

奇術師ほど醒めた生き方から遠い人間はいない。自分がやることすべてがペテンであることを彼は知っているし、ほかの誰もが知っている。要は人はだますことではなく、人を喜ばせ、だまされてもいいという気持ちにさせることなのだ。それによって、数分のあいだ因果関係をめぐる注意力は弱められ、自然の法則は忘れられる。パスカルが『パンセ』で書いているように――「奇跡を合理的に否認することは可能ではない」

p.196

あらゆる書物は孤独の象徴だ。それは手にとり、置き、開き、閉じることができる物体である。そこに収められた言葉たちは、何か月、ときには何年にも及ぶ、一人の人間の孤独を体現している。だから、ある書物を一語読むごとに、人はその孤独を形成する一個の分子と向きあっていると言ってよいだろう。一人の男が独りきりで部屋に座り、書く。その本が孤独について語っていようが他人とのふれ合いについて語っていようが、それは必然的に孤独の産物なのだ。Aは自分の部屋に座り、他人の書物を翻訳する。あたかも他人の孤独のなかに入り込み、それを自分のものにしようとするかのように。だがもちろんそんなことはありえない。なぜなら、ひとたび孤独が破られてしまえば、ひとたび孤独が他人によって引き受けられてしまえば、それはもはや孤独ではない。それは一種のふれ合いである。部屋のなかには一人しかいない。だがそこには二人いるのだ。

p.223

ポンジュにとっては、書く行為と見る行為のあいだに何の隔たりもないのだ。いかなる言葉もまず見られることなしに書かれえない。ページにたどり着く前に、それはまず身体の一部になっていなければならない。心臓や胃や脳を抱えて生きてきたのと同じように、まずはそれを物理的存在として抱えて生きなくてはならないのだ。だとすれば記憶というものも、我々のなかに包含された過去というより、むしろ現在における我々の生の証しになってくる人間がおのれの環境のなかに真に現前しようと思うなら、自分のことではなく、自分が見ているもののことを考えねばならない。そこに存在するためには、自分を忘れなくてはならないのだ。そしてまさにその忘却から、記憶の力が湧き上がる。それは何ひとつ失われぬよう自分の生を生きる道なのだ。

pp.227-228

小説を読むとき人は、ページに書かれた言葉の向こうに意識的精神がひそんでいることを前提とする。だがいわゆる現実世界での出来事を前にするとき、人は何も前提としない。作られた物語がすべて意味から成り立つ一方で、事実の物語はそれ自身の向こう側に何ひとつ意義をもたない。もし誰かに「私はエルサレムに行くんです」と言われたら、人は思う。そいつはいい、この人はエルサレムに行くんだ、と。だがもし小説の登場人物が同じように「私はエルサレムに行くんです」と言ったとしたら、反応はまったくちがってくる。人はまず、エルサレムという土地について考える。その歴史、宗教的意義、神話的な場としての機能。過去を考え、現在を考える(政治――それもまた近い過去を考えることだ)。そして未来を考える。たとえば「来年エルサレムで」という言い回し。そしてさらに、そうやって考えたもろもろの事象を、エルサレムに行こうとしている人物について自分がすでに知るところと組み合わせて、でき上がった新たな統合を用いてさらなる結論を引き出し、認識を精緻にし、その作品全体についていっそう納得いく見解をつくり上げていくのである。そしてまた、ひとたび作品が読み終えられ、最後のページが読まれ書物が閉じられるとともに、今度は解釈がはじまる。心理的、歴史的、社会的、構造的、文献学的、宗教的、性的、哲学的解釈。それらを自分の好みに従って、単独に、あるいは複数を組みあわせて用いるのだ。もちろん現実の人生だって、そうしたシステムに基づいて解釈することは可能である(考えてみれば司祭や精神科医に話を聞いてもらうのはまさにそういうことだし、人間が歴史的状況に基づいて自分の人生を理解しようとすることも珍しくない)。だがその効果は同じではない。何かが欠けてしまうのだ――壮大さ、根本的なるものを捉えたのだという手応え、形而上的心理の幻影とでもいうべきものが。

pp.240-242

老人は、法廷でやるように、抗弁、反論、祥子の提示といった論理的手続きを通して商人を弁護しようとするのではない。そんなことをしたところで、すでに見えているものを魔神にもう一度見させるだけだろうし、それについて彼の心はもう定まっている。そうではなく、老人は魔神の関心を事実からそらそうとするのである。死の思いから彼の注意をそらし、彼を喜ばせるのだ(喜ばせる= delight は字義どおりには「誘い出す」――ラテン語の delectare ――という意味)。そしてその結果、生に対する見方を改めさせ、何が何でも商人を殺すのだという執念を捨てさせるのである。そのような執念は人を孤独のなかにとじ込めてしまう。自分の思考以外何ひとつ見えなくしてしまう。これに対し、物語というものは、それが論理的議論ではないからこそ、それらの壁をうち破る力をもつ。なぜなら物語は他者の存在を前提としているのであり、聞き手は物語を通してその他者たちとふれ合うことができるからだ――たとえそのふれ合いが思考のなかのものにすぎなくても。

p.250

たまたまこのアメリカ人医師がキャンプの病院で仕事中に、カーター夫人の一行が現れた。病院といっても間にあわせの掘立小屋であり、藁ぶきの屋根に梁が二、三本あるだけ、患者たちは地面に直接敷いたマットの上に寝かされている。そこへ大統領夫人が、役人やら新聞記者やらカメラマンやらの大群を従えてやって来たのだ。その人数たるや実にすさまじく、一行が病院を通過するなかで、患者の手は思い西洋式の靴に踏みつけられ、点滴のチューブは通りすがりの脚にひっかかって外れ、体は不注意に蹴飛ばされた。このような混乱が避けうるものだったかどうかはわからない。いずれにしろ、訪問者たちが視察を終えた時点で、このアメリカ人医師は彼らに要請した。どうかお願いです、どなたか少しのあいだ時間を割いて、献血をしていただけないでしょうか。カンボジア人の血は、いちばん健康な人間の血でも薄すぎて使えないのです。もう血液の蓄えがなくなってしまったのです、と。だがファースト・レディの一行はスケジュールに遅れていた。その日のうちにまだほかにも行くべき場所があり、もっとたくさんの苦しむ人々を見なければならなかった。時間がないんです、と彼らは答えた。残念ですが。まことに残念ですが。訪問者たちはそう言い残して、来たときと同じようにあわただしく去っていった。

pp.257-258

いやしくも正義というものがあるとするなら、それは万人のための正義でなくてはならない。誰一人排除されてはならない。さもなくば正義というものもありえない。

p.263

読書エフスキー
引用:『孤独の発明』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(新潮社)

孤独の発明を読みながら浮かんだ作品

ピノッキオの冒険
4.1

著者:カルロ・コッローディ
翻訳:杉浦明平
出版:岩波書店
ページ数:329

読書エフスキー
カルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』ですか。
書生
今ではディズニー作品として有名になったカルロ・コッローディの『ピノッキオの冒険』や、アラビアンナイトとして知られる『千夜一夜物語』が作中に出てきますが、その紹介の仕方が見事で、『孤独の発明』を読み終えた後に気がつけばAmazonでポチってました。

レビューまとめ


ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。

ポール・オースターの作品を順番に読んでいくとして、手にとった一番めの作品『孤独の発明』でしたが、まさかここまで読むのに苦労すると思いませんでした。

そして「レビュー、マジで何書いたら良いの!?」って状態でここまで困ったのも久しぶりでした。

読書エフスキーには、映画でニュースを見ている感じなんて語らせましたが、感覚としては世界史の教科書を読んでいるみたいな感じでした。一本筋でまとめてくれたら読みやすかったのだけれど…っていう。

ただ、これを読むことによって、今後のポール・オースターの作品に対する理解が深まる事は確かなので、ポール・オースターの作品を何冊か読んだ後に手にとってみると面白い作品だと思います。

あ、それと吉本ばななが解説を書いてくれているんですけど、やっぱり面白い感性していますね。父と子の関係性について語っていて、ポール・オースターは自分の父をそこにいるのにそこにいない人として捉えていましたが、実は結構どこにでもいる普通のお父さんだったんじゃないか?みたいな事を書いていました。

確かに父親って、近くにいるようで謎の存在だったりしますもんね。吉本隆明を父に持つ吉本ばななが言うと説得力があります。

大人になってから、父親とはなんと自分とは真逆の性格なんだ、近寄ろうにも全く受け付けない何かがあるなと感じるようになった僕としては、その説に一票。

それにしても振り返ってみれば『見えない人間の肖像』と『記憶の書』では『見えない人間の肖像』の方が確かに読みやすく面白かったんですが、後々になって何度も思い出すことになるのは『記憶の書』のような気がします

難解でしたが、部分的に心に刺さる強度が凄まじかったので。ふう。疲れたー。

ではでは、そんな感じで、『孤独の発明』でした。

ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます

最後にこの本の点数は…


孤独の発明 - 感想・書評

孤独の発明
4.2

著者:ポール・オースター
翻訳:柴田元幸
出版:新潮社
ページ数:307

孤独の発明 ¥ 680
  • 読みやすさ - 52%
    52%
  • 為になる - 78%
    78%
  • 何度も読みたい - 63%
    63%
  • 面白さ - 73%
    73%
  • 心揺さぶる - 70%
    70%
67%

読書感想文

前半と後半であまりにも書き方が変わるので、評価が難しい所ですが、両方の中央点をとって点数をつけました。なので総じて評価が低くなっちゃっていますが、点数ほどには悪い作品ではないと思います。ポール・オースターの5冊目ぐらいに手に取ったらちょうどよいかも。

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