- 著者:J.D.サリンジャー
- 翻訳者:村上春樹
- 出版社:白水社
- 作品刊行日:1951/07/16
- 出版年月日:2006/04/01
- ページ数:361
- ISBN-10:4560090009
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を最初に読んでから7年が経った。前回はこの本を読んでかなり酷評した気がする。そして内容ですら覚えていない。
村上春樹が好きで『ライ麦畑でつかまえて』という本は有名だったので、とりあえず読んでおこうぐらいな気持ちで読んだ記憶があっただけだった。
最近、昔観た映画などを見直してみて、評価が激変するという事が度々あったので、もしかしたらこれが年齢を重ねるということなのか…と。そして本の世界ではどうだろうかと興味を持ちましたので、再度挑戦してみようと思った次第です。
さて、この本は歳を取れば取るほど読み返したくなる本という事を最初に読み終わった後にAmazonレビューで気がついたわけですが、まさにそうでした!そう、この本、まさに評価が激変したのです…
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小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』 – J.D.サリンジャー・あらすじ
読書エフスキー3世 -キャッチャー・イン・ザ・ライ篇-
あらすじ
書生は困っていた。「本にジャムを塗って朝に食べよう!」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。読んでいない本のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…
キャッチャー・イン・ザ・ライ -内容紹介-
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。
引用:『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D.サリンジャー著,村上春樹翻訳(白水社)
キャッチャー・イン・ザ・ライ -解説-
村上春樹の翻訳した『The Catcher in the Rye』を読んだ。
ライ麦畑で捕まえては傑作なのか?
はっきり言うと、好きじゃない。何が好きじゃないかと言われれば、自分でもはっきりとはわからないのだけれど、主人公の性格が嫌いなのか、この文体が嫌いなのか、とにかく読んでいていけ好かなかった。
前評判としては、『ライ麦畑で捕まえて』は青春小説として傑作だと言われていたのだけれど、とにかくこの主人公の感じがどうも自分には同調できなかった。
アマゾンには何百ものレビューがあったので、ちょっと読んでみると、歳を取ればとるほど読み返したくなる本なのだそうだ。
僕にはまだ理解出来ない領域なのかもしれない。
村上春樹はとても好きな作家なのだけれど、この作品は好きではなかった。この作品の原作が悪いのか、それとも翻訳の仕方が僕には合わなかったのか、それを確かめるためには野崎孝の翻訳のほうも読んでみないとダメだな。
ただ、こんなに文句を言っているけれど、気に食わないだけで、読み辛いわけではないです。するする読めます。そこはストーリーの面白さなのか、文のリズムなのか、流石でした。
この話はつまり、少年なりの大人社会への批判を黙々と語っていくストーリーで、はみ出し者の叫びなんだけども、ここでまたアマゾンのレビューを読んで気が付いた。
僕がどうもいけ好かないのは、同族嫌悪というやつなのだ。
僕もこの主人公が語っているような事を考えていたりした。若い時に誰もが抱く、不安や新しい世界への批判などがザクっと胸をえぐるように描かれている。
そう考えると、J.D.サリンジャーという作家は流石で、この作品が傑作と言われるのも、そうそう否定は出来ないなと思った。
そんな感じで、昔の事を思い出しながら読んでみると、もしかしたら涙を流せる作品なのかもしれません。
でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子ども達がいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけれど、他には誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かがその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。かなりへんてこだとはわかっているんだけどね。
引用:「キャッチャー・イン・ザ・ライ」J.D.サリンジャー著,村上春樹翻訳(白水社)
批評を終えて
いつもより少しだけ自信を持って『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
名言や気に入った表現の引用
何はともあれ十二月のことだから、あたりは魔女の乳首みたいに冷え込んでいた。
教師ってのが一度何かしようと心に決めたら、それを阻止する手だてはないんだ。何を言ったところで、連中はとにかくやりたいことをやるんだから。
僕が本当にノックアウトされる本というのは、読み終わった時に、それを書いた作家が僕の大親友で!いつでも好きなときにちょっと電話をかけて話せるような感じだといいのにな、とおもわせてくれるような本なんだ。
人に信用してもらうのは、簡単じゃない。
誰かに何かをプレゼントされると、ほぼ間違いなく最後には哀しい気持ちになっちゃうんだよね。
さあいよいよここともお別れということになり、鞄やら何やらをそっくり持ったとき、僕はしばらく階段の降り口に立って、これが最後という事で廊下を見わたした。それで僕はなんだか泣いちまったんだよね。どうしてだろう。よくわからない。
いい声だった。というか、電話で聞くと映えるタイプの声だね。こういう人は常に電話を持ち歩いてるべきなんだよ。おおよそ世界中の母親ってのはさ、自分の息子がどれくらいすごい大物かって話を聞きたくてしょうがないんだよ。
すごく堂々としているんだけど、いい意味で堂々としているんじゃない。はりぼてみたいな感じで堂々としているんだ。
だいたいさ、酒も頼まず、酔っぱらいもせず、長いあいだ素面で座っていられるナイトクラブなんて、世の中にひとつもないんだ。君を本格的にノックアウトしちまうような女子と一緒なら話はまたべつだけどさ。
肉体的なことはべつにして、とにかく僕らはいつも一緒にいた。ひとりの女の子を知るってのは、セックスとは無関係だってできることなんだ。
でもピアノの演奏はすごいんだよ。あまりにも見事な演奏なんで、ほとんど陳腐に感じちゃうくらいなんだ。
でも殴り合いをするとしていちばんおっかないと思うのは、相手の顔なんだよ。
女の体というのはバイオリンのようなもので、それを弾きこなすには名人の手が必要なんだ。
お金っていやだよね。どう転んでも結局、気が重くなっちまうだけなんだ。
だいたい僕は俳優ってのがちっとも好きじゃないんだ。彼らは生身の人間みたいに振る舞わない。生身の人間みたいに振る舞っていると自分で思いこんでいるだけだ。
もうすぐクリスマスが来るというような雰囲気じゃまるでないんだよ。いつまでたってもなんにも来ませんっていう雰囲気なんだ。
この博物館のいちばんいいところは、なんといってもみんながそこにじっと留まっているということだ。誰も動こうとはしない。君はそこに何十万回も行く。でもエスキモーはいつだって二匹の魚を釣り上げたところだし、鳥たちはいつだって南に向かっているし、鹿たちはいつだって溜まりの水を飲んでいる。素敵な角、ほっそりしたかわいい脚も同じ。おっぱいを出したインディアン女はいつだって同じ毛布を織っている。みんなこれっぽっちも違わないんだ。ただひとつ違っているのは君だ。いや、君がそのぶん歳をとってしまったとか、そういうことじゃないよ。それはちょっと違うんだ。ただ君は違っている。それだけのこと。
退屈な人間ってのはそもそもよくわからないものなんだ。というようなわけで、もしどっかの素敵な女の子が見るからに退屈な男と結婚したとしても、それほど気の毒に思ったりするべきじゃないのかもしれない。そういう連中は、というかそのほとんどは、たぶん誰かを傷つけたりすることもないだろう。それに彼らは実を明かせばみんな口笛吹きの名人だったとか、そういうことなのかもしれない。本当のところって外から見るだけじゃわかりにくいものなんだよね。
デートの相手が待ち合わせの時間に遅れて、男が街角に立って仏頂面をしている漫画が「サタデー・イブニング・ポスト」なんかによく載ってるけど、ああいうのって嘘っぱちだね。やってきた女の子が目が覚めるようなルックスだったら、多少の遅刻なんて誰が気にするだろう?
つまりさ、その家族の誰かが死んじまったところで、僕としちゃべつにどうってことないんだ。結局のところみんな俳優が演じているわけだからさ。
つまりさ、君が何かをあまりにも良くできるようになるとだね、自分でよほどよく注意をしていないかぎり、ついついそのうちに、これ見よがしなことをやり始めちゃうわけだ。そうすると君はもうそんなに良くなくなっちまってる。
問題はさ、女の子っていうのは、相手の男がいったん気に入ったら、そいつがどんな下らないやつだったとしても、「あの人にはコンプレックスがあるだけなのよ」で片づけちゃうし、いったん気にくわないとなると、どんなにいいやつであっても、またどれほど大型のコンプレックスを抱えていたとしても、「あの人はうぬぼれ屋なんだから」となっちまうわけだ。頭のいい女の子だって例外じゃない。
インチキくさい映画を見ておいおい泣いているやつなんてさ、十中八、九まで実は根性曲がりのカスなんだ。嘘じゃないぜ。
兄のDBはなにしろ四年間も軍隊に入っていた。戦場にも行った。Dデイに敵前上陸もきた。でも彼は戦争よりも軍隊のほうをより憎んでいたと僕は真剣に思うんだ。
いずれにせよ、原子爆弾なんてものが発明されたことである意味では僕はいささかほっとしてもいるんだ。もし次の戦争が始まったら、爆弾の上に進んでまたがってやろうと思う。僕はそういう役に志願しよう。ほんとに、真面目な話。
この男は君の私生活のすごくプライベートなところまで、君にしっかりしゃべらせちゃうんだ。ところが君が彼に対して何か彼のプライベートなことを質問したりすると、ご本人はとたんに不機嫌になっちまう。こういう知的な連中ってのは、自分が上に立って仕切っているんじゃないかぎり、知的な会話をしたがらないんだよ。彼らは自分が静かにしているときには、君にも静かにしてもらいたいわけだ。自分が部屋に引っ込むときには、君にも自室に引っ込んでほしいんだ。
やれやれ、一度死んじまうとさ、君はひとつところにがっちり閉じこめられちまうんだ。僕は実につくづく思うんだよ。もし僕が真剣に死んじまったら、誰かが遺体を川にどぶんと放り込んだりしてくれないものかってさ。良識ってのはそういうものだぜ。何をされてもいいけど、ろくでもない墓地に押し込められるのだけはまっぴらだね。日曜日になるとみんながやってきて、きみのおなかの上に花束やらその手のろくでもないものを置いてったりするわけだ。まったくもう、死んでいる人間が花をありがたがるもんかい。冗談じゃないよな。
アリーの嘘くさい墓石にも雨が降ってたし、彼のおなかの上に生えている草にも雨が降っていた。そこいらじゅう全部に雨が降っていた。墓参りに来てた人たちはみんなあわてて自分の車の方に走っていった。そういうのってないだろうと、僕はつくづく思うんだよ。墓参りに来ている連中はみんな車の中におさまって、ラジオなんかつけて、それからどっか洒落た店に行って夕食を食べるわけさ。アリー以外のみんなはってことだよ。僕にはそういうことがとことん納得できないんだ。
君はただ意味不明なことを口にすればいいんだ。そうすればみんな君が望んでいることを、ほとんどなんだってやってくれるわけさ。
「死んでるってことはわかってるよ! 僕がその事を知らないとでも思っているのか? それでもまだ僕はあいつのことが好きなんだ。それがいけないかい? 誰かが死んじまったからって、それだけでそいつのことが好きであることをやめなくちゃいけないかい? とくに、その死んじゃった誰かが、今生きているほかの連中より千倍くらいいいやつだったというような場合にはさ」
僕が言ったことをフィービーが理解してくれたのかどうか、それはわからなかった。なにしろまだ小さな子どもなんだものね。でも少なくとも黙って僕の言うことを聞いてくれていた。何はともあれ君の話にちゃんと耳を傾けてくれる相手がいるってのは、嬉しいことだよね。
でも僕が言いたいのはですね、なんていうか、いったん話を始めてみるまでは、自分にとって何がいちばん興味があるかなんて、わからないことが多いんだってことなんです。それほど興味のないものごとについて話しているうちに、ああそうか、ほんとはこれが話したかったんだって見えてきたりするわけです。
人っていうのはだいたいにおいてさ、君が今は話なんかをしたくないなと思うときにかぎって、議論に熱が入ってくるものなんだよね。
キャッチャー・イン・ザ・ライを読みながら浮かんだ作品
レビューまとめ
ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。
僕が若い頃は小説を読む時は赤ペンと定規を持って気になった表現は線を引きながら読むという事をやっていたのですが、結局のところ、もう一度読み返すという事をせずに線を引いたまま本棚で眠っているという事が多かったのです。今回こうやって読み返してみると、昔の僕が線を引いた所が今の感性とは全く違っていて、それを追っていくのも楽しかったです。
本って映画に比べて時間がかかってしまうものなので何度も読むっていうのが難しいとは思うのですが、やっぱり読む度に新しい発見があるというのは面白いですね。自分の成長というか変化というのをまじまじと感じさせられます。
人間は常に一定ではない。どんなに悩んでいても、あとで振り返ってみると大した事がない事だったり、逆にあれだけ感動したものが今となっては心動かなかったり。だからこそ今一瞬を一生懸命生きる事が大切なのだと思いますが、この主人公のホールデン・コールフィールド君もきっと、大人になってからこの頃を振り返ってみると、え?これって本当に俺?って思うものなんでしょう。
作品の最初と最後じゃ、一日しか経っていないのに、なんとなくホールデン・コールフィールド君から感じ取れる雰囲気も違っていますし。若い頃は日々激動の連続なんですね。あぁ。昔の若い頃、僕が不満に思っていた事は今となっちゃ、なぜあんなに熱くなっていたのか、もっとスマートな対処法があったに違いないのに。
ま、でもあの頃の僕がいたからこそ今の僕が形成されているわけで、ありがとう昔の自分。
この本を読んでいる時は、崖から落ちそうな子供を助ける職業なんてあるもんかい!とツッコんでましたが、実際にあったら、僕もきっと一日中それをやって、飽きもせずニコニコしている気がします。いいなぁ。そういう仕事。ライ麦畑なんて行ったことないけど。
ではでは、そんな感じで、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』でした。あまり先入観を持たず読むのが良いと思います。きっと期待しすぎた昔の僕はハードルをあげすぎた気がしますので。それもあって、今回はハードルが下がっていたのもあって、良い作品だと感じたのかも…。
ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます!
最後にこの本の点数は…
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キャッチャー・イン・ザ・ライ - 感想・書評
キャッチャー・イン・ザ・ライ
- 読みやすさ - 78%78%
- 為になる - 69%69%
- 何度も読みたい - 73%73%
- 面白さ - 71%71%
- 心揺さぶる - 81%81%
読書感想文
改めて小説というものが自分のその時の感情に左右される事を知りました。共感出来るかどうかって、その時どう思っているか、どう感じているかが大きいですよね。経験も含めて。そう思うと、僕も色々と経験を重ねてこれたのだな。やっとこの小説の良さを理解出来た気がします。価値がわかるという事は素晴らしい事だなぁ。