最後の物たちの国で - 書籍情報- 著者:ポール・オースター
- 翻訳者:柴田元幸
- 出版社:白水社
- 作品刊行日:1987/04/20
- 出版年月日:1999/06/30
- ページ数:228
- ISBN-10:4560071314

BOOK REVIEWS
最後の物たちの国でというポール・オースターの5番目の小説を読みました。この小説はポール・オースターを有名作家にしたニューヨーク三部作と世間で一番読まれているムーンパレスのちょうど間に発表された作品です。
ポール・オースターの代名詞とも言えるニューヨークを舞台にした作品ではなく、主人公も初めて女性である事、手紙形式の文章などなど今までのポール・オースターとは違いすぎて、本国アメリカでは他の作品に較べて比較的に受け入れられなかったようです。
だがしかし!日本の読者にはこの作品をポール・オースターの一番と言っている方も多いらしい。そして読んで納得。あまりに作風が違いすぎて「これは本当にポール・オースターが書いたものなのか!?」とビックリしましたが、たしかにこれは面白い。
世界の破滅を描いた物語。
これが1987年の作品だと言うのだから驚きです。ポール・オースターの描く世界の破滅は、他の作者とはちょっと違う。ということで、最後の物たちの国でのレビューに入っていくことにしましょう。
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小説『最後の物たちの国で』 – ポール・オースター・あらすじ
著者:ポール・オースター
翻訳:柴田元幸
出版:白水社
ページ数:228
盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国、人々は住む場所を失い、食物を求めて街をさまよう。昨日は今日より少しだけ良かった。明日は今日より悪くなっていく。すべてがゼロへ向かう国。そんな場所へアンナは行方不明の兄を探しにやってきたのだが、待っていたのは死以外にそこから逃れるすべのない日々だった…。
読書エフスキー3世 -最後の物たちの国で篇-
前回までの読書エフスキーは
あらすじ
書生は困っていた。「話が最初に戻っている!」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。『最後の物たちの国で』のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…
最後の物たちの国で -内容紹介-
無料読書案内の書生大変です!先生!ポール・オースターの『最後の物たちの国で』の事を聞かれてしまいました!『最後の物たちの国で』とは一言で表すとどのような本なのでしょうか?
読書エフスキー3世“ミイラ取りがミイラになるディストピア小説”デスナ。
無料読書案内の書生ミイラ取りがミイラ…。なんか今までと雰囲気が違いそうですね。ぶっちゃけ『最後の物たちの国で』は面白い本なのでしょうか?
これらは最後の物たちです、と彼女は書いていた。一つまた一つとそれらは消えていき、二度と戻ってきません。私が見た物たち、いまはない物たちのことを、あなたに伝えることはできます。でももうその時間もなさそうです。何もかもがあまりに速く起こっていて、とてもついて行けないのです。
引用:『最後の物たちの国で』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(白水社)
読書エフスキー3世コンナ一文カラ始マル“ポール・オースター”ノ1987年の作品デス。面白イカドウカハ読メバワカリマス。
読書エフスキー3世読む前にレビューを読むと変な先入観が生マレテシマウジャナイデスカ。
無料読書案内の書生ええい、それは百も承知の助!そしてカタカナ混じりが読みづらい!先生、失礼!(ポチッと)
読書エフスキー3世ゴゴゴゴゴ…悪霊モードニ切リ替ワリマス!
無料読書案内の書生うぉおおお!先生の読書記録が頭に入ってくるぅぅー!!
最後の物たちの国で -解説-
読書エフスキーなんか最近やたらと世界が破滅している作品が多くありません?
書生第三次世界大戦が起きた世界の事とか、化学兵器により人類がほとんどいなくなった世界みたいな設定の映画とかゲームや漫画などが増えた気はしますね。
読書エフスキー3世ちなみにそういう作品が多く生まれてき始めたのっていつの頃か知っていますか?
書生え…。いつの頃ですか。その質問をするってことは最近ではないんですよね?
読書エフスキー3世小説の分野でいわゆるディストピア小説と呼ばれる物が沢山出てきたのは1900年代に入ってから、主に第一次世界大戦から第二次世界大戦の間のファシズムが広がり始めた頃なんですよ。
読書エフスキー3世あ、ちなみにディストピアってわかりますか?
書生ディストピアと言いますと、ユートピアの「dis(ディス)」って事じゃないんすかね。
読書エフスキー3世ディスってるってのはディスリスペクトの事ですよね。という事は?
書生「ディス」は反対って事っすかね。ディスユートピアをギュッと縮めてディストピア、理想郷の反対のイメージです。
読書エフスキー3世1516年にトマス・モアという人が書いた『
ユートピア』という作品があるんですけどね、ユートピアってのはラテン語で
どこにもない場所という意味でして。
書生どこにもない場所…。それの反対って事は「どこかにある場所」って事ですか?
読書エフスキー3世まず「ユートピア」という作品が生まれた16世紀は管理社会を良しとして、感情や理性的じゃないことを排除する風潮があったんですよ。ルール守れーって感じで。完璧に統制された世界の素晴らしさみたいなね。
読書エフスキー3世ただ完璧なんて事は人間的に難しい所もあり、だからこそ理想だけれどそこまで到達出来ない場所として、「どこにもない理想郷」としてユートピアなんて呼ばれていたわけですね。
読書エフスキー3世しかし20世紀にもなってくると科学の進歩などで人を完璧に管理することも現実的になってきました。そしてファシズムなどが生まれてきた。
書生圧倒的武装、圧倒的権力!お前のものは俺のもの、俺の言うことは絶対!ってミサイル片手に言われたらできちゃいますもんね。
読書エフスキー3世そうなってくると管理社会ってのが実はそれほど素晴らしいものではなく、息苦しいものなんじゃないか?行き過ぎたらヤバいんじゃないか!?なんて思う人が出てくるわけです。
書生あー、なるほど。今なんてまさにガッチガチの管理社会…。素晴らしいだけのものではなかった気がしますね。
読書エフスキー3世そこで小説家達はこのままだとヤバいんじゃね?みたいな感じで近い未来を描きはじめる。
読書エフスキー3世たとえば早い所で言えば19世紀末頃、SFの父と呼ばれているハーバート・ジョージ・ウェルズは『
タイム・マシン』でディストピアの世界を書き始めたのです。
書生管理社会の恐怖かぁ…。僕の知っている所だとジョージ・オーウェルの『
一九八四年』とかオルダス・ハクスリーの『
すばらしい新世界』は読みましたね。
読書エフスキー3世昔は啓蒙思想ってのがあって、理想を追い求めようぜ!って人たちがたくさんいて頑張ってきたわけですが、ある程度目標も達成し始めて世界が潤って来ると、今度は行き過ぎちゃうわけですよね。
書生行き過ぎちゃうと行き過ぎちゃっている事に気が付かなくて、管理されていることが当然の未来みたいな感じの設定が多かったですね。その中の世界の人は誰もその危険性や不思議さに気がついていないんですよね。それでふと主人公が疑問に思う所から始まるみたいな。
読書エフスキー3世それを読者が読むことで、このまま文化や文明が発達していったら、本当に大丈夫なんだろうか?と疑問を持つ事を目的として書かれているみたいなのがディストピア小説の存在意義なわけで、そうなると基本的には舞台が未来の事が多いです。
書生あー。『一九八四年』も今となっちゃ過去ですけど、あれが発行されたのは1949年ですもんね。
読書エフスキー3世そこで今回のポール・オースターの『最後の物たちの国で』の話になってくるわけですが、なんと舞台は未来ではありません。
読書エフスキー3世まず始めに簡単にあらすじの方を説明していきましょう。
読書エフスキー3世この小説はノートに書かれた手紙形式の文章という事で話が進んでいくのですが、その書き手となる主人公はアンナ・ブルームという女性です。
書生ポール・オースターの作品としては初めての女性主人公ですね。
読書エフスキー3世そのアンナはウィリアムというお兄さんを探しにどこかの国へ出かけます。
読書エフスキー3世特に表記はされていません。ただ広大な国とだけ記されています。砂漠は何百マイルも広がり、その向こうにはいくつもの都市や山脈、炭鉱や工場、広大な領地などが第二の海に出会うまでえんえんと広がっているらしいです。
読書エフスキー3世ウィリアムは新聞社に勤めていました。そしてその国に派遣され、その国の内情を通信で送るはずだったのですが、9ヶ月も音沙汰なし。そこで19歳のアンナは衝動に駆られてその国へ行くことに決めたのです。
読書エフスキー3世ちなみに新聞社の編集長は必死で止めました。1ヶ月前に新しい記者を送ったからその連絡を待ってから行動してみたらどうかと。しかし、頑固なアンナは編集長からその新しい記者の名前と顔写真だけを受け取りその国へ向かいます。
書生あー、たしかに完全にミイラ取りがミイラになるっぽい話ですね。
読書エフスキー3世アンナが到着した国では、人々は次々と死んでいき、赤ん坊は一人として生まれてきません。ただどこかから新しく人が追加されるのです。
読書エフスキー3世物もどんどんなくなり、存在が消えると同時に言葉も失われていきます。ゼロに近づいていく世界なのです。
書生お。そこらへんの言葉の概念がゼロになっていくって感じはポール・オースターっぽいですね。
読書エフスキー3世盗みや殺人はもはや犯罪ではなくなります。死体からは奪えるものは奪っていき、そこら中に転がっている死体は国の役員が変身センターと呼ばれる火葬場へ運ぶためにトラックに積んでまわります。
書生死体から身ぐるみを剥いだりするのは、芥川龍之介の『
羅生門』みたいですね。
読書エフスキー3世まさにこの国の人達の道理は、羅生門のお婆さんみたいな感覚で、死体を埋葬することでさえ違法なのです。使えるものを無駄にするなと。
書生…第二次世界大戦中に人間の死体から石鹸を作っていた工場のビデオを小学校の時に観たのを思い出しました。
読書エフスキー3世この小説はホラーでもSFでもないのです。過去にどこかに存在していた、またはいま現在も存在している現実そのもの。
読書エフスキー3世ポール・オースターも未来のディストピアではなく、現在と少し前の過去を描いたのだと強調しています。
書生…僕らはそういう世界がある事を忘れるようにして生活していますよね。
読書エフスキー3世そんな世界でアンナはとにかく書くことだけは続けます。
読書エフスキー3世そこにあったものが次の瞬間には消えてしまうこの国で、アンナは記録を残すのです。
読書エフスキー3世兄を探しにこの国へ来たわけですが、そこからすぐに地獄のような生活に落とされます。当面の生活費を得るため、ショッピングカートを手に入れ、物拾いをして生活する事を強いられたのです。
読書エフスキー3世瓦礫の中から価値のあるものを見つけ出す。そしてそれを売って生活する。
読書エフスキー3世この世界は家を持っていたとしても、強盗に入られたり、難癖つけられて家を奪われてしまうのです。
書生…僕らって本当に治安の良い国に住んでいるんですねぇ。
読書エフスキー3世ショッピングカートでさえ奪われる可能性があります。とにかくここは今あった物が次の瞬間には消えてしまって当然の世界。
書生…たしかに現実世界にそういうのがないと言ったら嘘になりますね。日本でもたまに見かける光景。
読書エフスキー3世その“たまに”目にするものが“どこもかしこも”の世界なわけですね。
読書エフスキー3世そんな中でアンナは一人のお婆さんを助けます。
読書エフスキー3世この世界では、どのように死を迎えるか。それだけが唯一の楽しみとして安楽死クラブみたいなのがあったり、死に絶えるまで走り続ける集団のようなものがあるのですが…
読書エフスキー3世アンナの目の前で物拾いをしていたお婆さんが転倒してしまったのです。そしてその近くには死に絶えるまで走り続ける集団が。このままではお婆さんは彼らに踏み潰されて死んでしまう。
読書エフスキー3世アンナは自分のショッピングカートの事なぞ忘れ、お婆さんを助けに向かいます。
読書エフスキー3世アンナはこの国に来て初めて仲間というようなものにふれ合います。お婆さんと一緒に生活するようになるんですね。
読書エフスキー3世ただ、お婆さんにはちょっと気の狂いがちな旦那さんがいました。
書生う…。早くも希望的なものに影が差し込んできた。
読書エフスキー3世お婆さんが元気な内は一緒に物拾いなどを行って生活していたのですが、そのお婆さんも徐々に老いていき、動けなくなってきてしまいました。
書生安息もすぐに終わってしまうんですねぇ…。なんか現実をぎゅぎゅっと10倍速ぐらいで再生したような世界だ。
読書エフスキー3世お婆さんが動けなくなると、おじいさんはアンナを目の敵にするようになり、襲いかかってきました。
読書エフスキー3世…ま、こんな感じでね、アンナは最後の物たちの国で人と出逢い、別れ、それを繰り返しながらも書くことを続ける物語なわけですよ。
読書エフスキー3世この後、写真の男と出会ったり、ヴィクトリアと呼ばれる女性と出会ったりするんですけどね、基本的にはこの最後の物たちの国の中でどうやって生きていくかって話なので、大まかなあらすじは話したつもりです。
書生うーむ。それにしてもこの作品はアンナが書いた手紙って形をとっているんですよね?
読書エフスキー3世そうですね。ノートに書かれた手紙ですね。
読書エフスキー3世私も読みながらこれは誰宛てに書いているんだろうって思いながら読んでいたんですけどね。書簡小説で有名な『
若きウェルテルの悩み』みたいな書き方なのかなぁ〜と。
読書エフスキー3世でも出てこないんですよ、名前が。
読書エフスキー3世なので、これらのノートはもしかしたら不特定な誰かに読まれる事を望みながら書いていたのではないでしょうか。最後の物たちの国からは出られないわけですし。
読書エフスキー3世この国は政府が絶えず入れ替わっていてですね、その時の政権によって決まりが変わっていくんですが、物語の途中で出国禁止ってなったんですよ。
読書エフスキー3世でもまぁ、この物語の主人公はですね、それほど必死に国外逃亡を図るわけではなく、この世界の中にどれだけ順応していくか、その世界の中でどれだけ幸せを見出していくかに意識を持っていくんですよね。
書生ほほう。これまた他のディストピア小説とは違う雰囲気ですね。どっちかというと主人公ってビッグブラザーとかに立ち向かっていくみたいな、主人公 VS 独裁者的な描かれ方するのが多いですよね。
読書エフスキー3世そうですね。他のディストピア小説は立ち向かった上で、闇に打ち勝つことは出来ずに、また前の生活に戻っていくってパターンが多かった気がします。
書生この小説のレビュー読んでいて気になったんですけど「希望」って言葉が多く使われていたんすよね。って事はハッピーエンドなんですか?
読書エフスキー3世今回は本当にポール・オースターか!?っていう感じの作品なので、お勧めしにくくはありますが、私は個人的に好きな作品でした。
書生結局は自分で読んでから判断って事で、話が最初に戻っている!
批評を終えて
読書エフスキー以上!白痴モードニ移行シマス!コード「ケムール・ボボーク・ポルズンコフ!」
無料読書案内の書生「話が最初に戻っている!」…って、あれ?僕は一体何を…。
職場の同僚何をじゃないよ!仕事中に居眠りこいて!話なんてしてなかったじゃないか!
無料読書案内の書生え?あれれ?読書エフスキー先生は?
上司誰だそれ。おいおい。寝ぼけ過ぎだぞ。罰として一人でここの案内やってもらうからな!
無料読書案内の書生えーっ!?一人で!?で、出来ないですよ〜!!
上司寝てしまったお前の罪を呪いなさい。それじゃよろしく!おつかれ〜
無料読書案内の書生ちょっ、ちょっと待って〜!!…あぁ。行ってしまった。どうしよう。どうかお客さんが来ませんように…。
お客さん…あのすいません、最後の物たちの国でについて聞きたいんですが。
無料読書案内の書生(さ、早速お客さんだーっ!!ん?でも待てよ…)いらっしゃいませー!ポール・オースターの5番目の作品でございますね。おまかせくださいませ!
あとがき
いつもより少しだけ自信を持って『最後の物たちの国で』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
名言や気に入った表現の引用
書生「一杯の茶を飲めれば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。by フョードル・ドストエフスキー」という事で、僕の心を震えさせた『最後の物たちの国で』の言葉たちです。善悪は別として。
この街に住んでいると、何ごとも当然とは受け取らなくなります。一瞬目を閉じたり、うしろを向いて別の物を見ただけで、たったいま目の前にあった物がもうなくなっているのです。何ものも続きはしません。そう、心のなかの思いさえも。それを探して時間を無駄にしてはいけません。いったんなくなった物は、もうそれでおしまいなのです。
pp.5-6
食べたいという欲求がなかったら、絶対にやって行けないことは確かです。でもここでは何ごとも最低限で済ませることに慣れなくてはなりません。欲しがる気持ちが弱まれば、より少ないもので満足するようになります。必要とするものが減れば減るほど楽になるのです。この街にいると誰でもそうなってきます。さまざまな思いを、街はひっくり返してしまいます。人を生きたいという気持ちにさせておきながら、それと同時に、人生を奪い去ろうとするのです。逃げるすべはありません。何をするか、しないか、どちらかしかありません。何かをしたとしても、つぎにもう一度できる保証はありません。しなかったなら、もう二度とすることはないでしょう。
p.7
望みが消えてしまうとき、望みというものの可能性さえ望まなくなってしまったことに気づくとき、人は何とかして進みつづけようと、夢や子供っぽい思いや物語で空っぽの空間を満たそうとするものなのです。
p.14
人々がいつも決まって嘘をつくというのではありません。ただ、過去に関する限り、真実は往々にしてあっという間にぼやけてしまうのです。ほんの数時間のうちにいくつもの伝説が生まれて、尾ひれのついて話が流通し、事実は見る見るうちに、無数の途方もない仮説の山に埋もれてしまう。この街で採るべき最良の方策は、自分の目で見たものだけを信じることです。でもそれさえも絶対に確実ではありません。なぜなら、物事が見かけどおりということは元々ほとんどないのだし、ここではなおさらそうだからです。一歩歩むごとに吸収すべき要素はおそろしく多く、理解を絶する事物も数限りなくあります。あなたが何を目にするにせよ、それはあなたを傷つける可能性を秘めています。あなたという人間を減少させてしまう力を宿しています。まるで、単に物を一つ見ることによって、あなたという人間の一部があなたから奪われてしまうかのように。物を見るのは危険な行為だと身をもって感じることもしばしばです。
p.24
私の努力とはほとんど無関係に、言葉はやって来ます。考えても考えても言葉が出てこない、もうどうあがいても絶対に見つかりっこない、そう思ったところではじめて言葉はやって来るのです。毎日が同じ苦闘、同じ空白のくり返しです。忘れたいという欲求、そして忘れたくないという欲求のくり返し。それがはじまったら、この地点、このぎりぎりの地点まで来てやっと、鉛筆が動き出すのです。
p.47
本当に、物の見方なんてあっという間に変わってしまうものです。この街へ来る前に、もしも誰かに、あなたはやがてここに住むことになるんですよなどと言われたら、私は絶対に信じなかったでしょう。でもいまは至福の思いでした。何かとてつもない贈り物をもらったような気分でした。不潔とか、安楽とかいった概念は、結局のところ相対的なものにすぎません。
p.63
あなたはそう思わないかもしれないけれど、物事は反転可能なものではありません。入れるからといって、出られるとは限りません。入口は出口にならないし、たったいま通貨してきたドアがもう一度ふり返ったときもまだそこにあるという保証はありません。それがこの街の掟なのです。ある質問に対する答えがわかったと思った瞬間、質問そのものが意味をなさないことを思い知らされるのです。
p.104
本より大切なものはたくさんあります。祈りより食べ物が先です
p.116
向こうに何があるのか知らなければ決してドアをノックしてはならない
p.119
美人はお医者になっちゃいけないのよ。ルール違反よ
p.152
人生には、誰も強いられるべきでない決断があります。とにかく精神に対してあまりに大きな重荷を課してしまう選択がこの世にはあると思うのです。どの道を選ぶにせよ、結局絶対に後悔することになるのであり、生きているかぎりずっと後悔しつづけるしかないのです。
pp.162-163
私たちはみな、いろんな物事を当たり前のものとして受け止めています。しかもそれが、食べ物、寝ぐらといった、おそらくは私たちの生得権に属する事物となると、それらを自分自身の本質的要素と考えてしまうようになるのに、さして時間はかからないのでしょう。いままで持っていた物を失ってはじめて、私たちはその物の存在に気づきます。そしてそれをふたたび取り戻すやいなや、またしてもその存在を気に留めなくなってしまうのです。
p.168
それはどれもみな違った物語でしたが、同時につきつめればどれもみな同じ物語でした。数珠つなぎの不運、もろもろの誤算、じわじわとのしかかってくる状況の重圧。我々の人生とは、要するに無数の偶発的出来事の総和にすぎません。それらの出来事が細部においてどれほど多種多様に見えようとも、全体の構成がまったき無根拠に貫かれているという点においてはみな共通しているのです。
p.171
これはお芝居よ。嘘というのは自分が得をするためにつくものだけど、私たちは何の得もしないわ。他人のため、他人に希望を与えるためにやるのよ。
p.196
できなきゃできないだけのことよ。でもできるかできないか、やってみなくちゃわからないでしょう?
p.197
読書エフスキー引用:『最後の物たちの国で』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(白水社)
最後の物たちの国でを読みながら浮かんだ作品
読書エフスキーおや?恩田陸の『麦の海に沈む果実』ですか。
書生なんとなーくですが、女性が主人公という事もあってか、恩田陸の麦の海に沈む果実を思い浮かべました。あれは別にディストピア小説ってわけでもないんですけどね。ディストピア小説で言えばレビューでも上げた『
一九八四年』と『
すばらしい新世界』をオススメします。
レビューまとめ
ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。
ニューヨーク三部作を読み終えて、次に読んだ作品が『最後の物たちの国で』だったので、そのあまりの作風の違いに度肝を抜かれました。
マジでこれ、ポール・オースターなの!?と何度か背表紙を確認してしまいましたよ。
本当に色々なものが書けるんですねぇ。小説家さんってすごい。ってか、ポール・オースターってすごい!
それにしても今回はディストピア小説だったわけですが、今まで読んできたディストピア小説とは一味違った内容で、そこからもポール・オースターらしさがにじみ出ているのかなぁ〜と思います。前衛的な作家といわれるのもよく分かる。
おそらく純粋なディストピア小説を読みたいのであれば、他の作品の方が純度が高いでしょう。危機的状況を突き詰めていたり、狂気や緊張感が伝わってくる作品を求めているのなら『最後の物たちの国で』じゃなくて良いのです。
『最後の物たちの国で』は、もっと現代的でマイルドな読み心地なのです。もちろん読むのが辛く、心が痛くなる描写とかもあるっちゃあるんですけどね。それでも他の作品よりもマイルドです。
例えばお化け屋敷にただただ怖さを求めて入りたい人もいるでしょう。しかし、怖さは弱くともその世界観が好きだから入りたいという人もいるじゃないですか。
この小説はどっちかというと後者の方への小説なのだと僕は思います。ディストピアが生み出す危機感や緊張感よりも、この作品が生み出す「なんか現代でもこの状況あり得るんじゃないか!?」っていう世界観、ある意味でリアリズム寄りのディストピアを描いている作品。
まさに「そこにあるかもしれない世界」を描いた作品だと思うのです。
ちなみに、今回の作品は手紙形式でして、一体誰に向けて書いたのか?って所が気になってたんですよ。そこでここからは読書エフスキーの延長戦という事で、レビューの続きを書いてみました。
興味がある方だけお読み下さいませ。
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最後の物たちの国で -レビュー延長戦-
書生ところでさっき、話が途中で終わっちゃったじゃないですか。やっぱりハッピーエンドかどうか知りたいんっすけど。
読書エフスキー3世うーむ。ハッピーエンド…と言えますかね。とりあえず読んでいて後味の悪いものではありませんでしたね。
読書エフスキー3世なんというか、アンナが魅力的だったってのも大いに関係するとは思うんですけど、生きていく強さみたいなのを感じ取れるんですよね。
書生あんなに過酷な国なのに、それに負けない前向きさみたいな?
読書エフスキー3世ある意味で手紙は読者に向けて書かれたとも言えると思うんですよ。写真の男っていたでしょう?
書生ええ。アンナのお兄さんの後に出版社から調査に来た男ですよね。
読書エフスキー3世その男がサムって言うんですけどね、彼の仕事はこの国の惨状を記録して、外の世界に知らしめることだったんですよ。
読書エフスキー3世この作品の中では、サムが書いていた記録は消失しちゃうんです。
書生さすが最後の物たちの国。そこにあったのに、次の瞬間にはもうすでになくなっているんですもんね。
読書エフスキー3世んでね、サムとアンナは作中の中で恋人同士なんですよ。
書生旅行先で自分の国の人を発見したら、なんか知らんけど親密になるパターンのやつですね!
読書エフスキー3世それでまぁ、サムの仕事がオジャンになっちゃったわけじゃないですか。
読書エフスキー3世それでまぁ、アンナはきっとそういうつもりはなかったのかもしれませんけど、結果的にはサムに変わって、最後の物たちの国の惨状を外の世界に届ける事になったんじゃないかなって。
読書エフスキー3世私達、読者ですよ。私達がこの作品を読む時、最後の物たちの国の出来事を詳細に知ることができるでしょう?それはこの手紙のおかげでしょう?
書生あら。これはポール・オースターお得意のメタなんちゃらってやつなんじゃないですか!?
読書エフスキー3世作品と現実の境界線を曖昧にして、ディストピアの世界を現実の世界の事のように感じさせる。私達は最後の物たちの国に対して何が出来るだろうか。…なんて事を考えさせる。
書生ふむ。僕はこういうのを読むと、自分ってちっぽけだなぁ。結局無力なんだなぁ。って思っちゃうタイプなんですけどね。
読書エフスキー3世ま、私もそのタイプですけどね。だからこそ、アンナのような主人公に魅力を感じるんですよね。どんな世界でも前向きに、幸せを感じられる力強さに惹かれます。
読書エフスキー3世相田みつをですか。そうですねぇ。確かに、世界がどんなに変貌しても、どれだけ犯罪が横行しても、自分はその中でも幸せを見つけられる人間でいたいですねぇ。
という事で、ポール・オースターの5番目の作品、『最後の物たちの国で』を読んでいきました。
ちょっと人を選ぶと思いますが、サクッと読める厚さの本なので、思い出したら手にとってみて下さいませ。
ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます!
最後にこの本の点数は…
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最後の物たちの国で - 感想・書評
著者:ポール・オースター
翻訳:柴田元幸
出版:白水社
ページ数:228
最後の物たちの国で¥ 1100
- 読みやすさ - 87%
- 為になる - 79%
- 何度も読みたい - 89%
- 面白さ - 91%
- 心揺さぶる - 88%
87%
読書感想文
ポール・オースターの他の作品とはまるで雰囲気が違う作品。相変わらず読みやすさの安定感は抜群。これからどうなるんだろうとページをめくらせる技術も素晴らしい。ラストの方は少しだけ心痛むシーンもあるけれど、読み終わった後は不思議な勇気をもらえる作品です。